浄土宗 浄桂院 敬上慈下の心を大切に

浄桂院の歴史 浄桂院の歴史

慶長年間、実蓮社真譽宗印上人によって開山

 浄桂院は慶長年間(1596~1615年までの期間)に実蓮社真譽宗印上人[生年不明~慶長15年戌年(1610年)7月26日遷化]によって創建されました。開山上人が亡くなった慶長15年は、江戸に徳川幕府が開いて7年目、2代将軍徳川秀忠公の御代であります。

光明山和合院 天徳寺の塔頭寺院として建立

 昔は港区西久保巴町、現今の霞ヶ関(虎ノ門)附近に、港区天徳寺の 塔頭寺院 ( たっちゅうじいん ) ・支院として建てられた寺院であります。塔頭寺院、支院とは、本寺に属する寺院のことで子院とも枝院とも書きます。役割としては、本寺の歴代住職の中でも徳の高い僧侶を祀ったり、宿坊や学坊としての役目を担った寺院のことです。天徳寺は、尾張徳川家、越前福井藩松平家の江戸における菩提寺で、寺格も高く、諸大名の帰依もあって寺運は隆盛しました。また、浄土宗江戸4ヶ寺の一つとして数えられ、幕府外交の場としても使用されたことがある由緒あるお寺であります。

関東大震災の影響で、港区西久保巴町より当地へ移転

 浄桂院は創建以来、明治年間までに火災に遭うこと2回、1回目は明暦の大火[振袖火事](1657年)、2回目は更に大正12年9月の関東大震災により寺宇・寺宝・寺書等一切を焼失しました。震災による被害は大きく西久保での復興を断念し、昭和4年5月に当地に移転してきました。隣接する祐天寺との本末関係はなく、祐天寺は増上寺末であり浄桂院は知恩院末であります。

祐天寺 第17世・第18世上人との師弟関係の縁を以て、寺所譲受が行われた

 移転の経緯は浄桂院第27世伊藤俊明上人と、祐天寺第17世愍隨上人とが師弟関係(師・愍隨上人)、祐天寺第18世俊興上人とが兄弟弟子(兄弟子・俊明上人)であった為、その縁を以て寺所譲受が行なわれました。
 浄桂院の記録によれば、
  一、 昭和3年7月、目黒に境内地購入、当寺を建設移転。昭和4年5月本堂完成。
  二、 昭和10年5月、境内地を拡張し、庫裡を新築、庭園を整備。
  三、 昭和52年7月、全面改築、現在の本堂、庫裡を完成。
 と記載されています。
 尚、俊明上人は昭和52年6月に新本堂・庫裡の落慶を目前に入寂しています。戒名は「中興接蓮社隨誉上人光阿遍照俊明大和尚」です。

御本尊様について

 浄桂院の御本尊様は、阿弥陀如来様です。浄土宗では阿弥陀様をお祀りし、お念仏「南無阿弥陀仏」とお唱えして、寿命が尽きて後に阿弥陀様の浄土「西方極楽浄土」に往生することを目的としております。
 浄桂院の阿弥陀様は『江戸浄土宗寺院誌史料集成』(大東出版社316頁)には、「本尊 阿弥陀如来 木立像 身丈ケ三尺程 作相不知」と記載されております。これを読みますと、本尊は阿弥陀如来の木像、お身体の長さは三尺(約90㎝)、作者は不明とあります。
 御本尊様を詳しく調べた資料に『郷土目黒』第三十三集(1989年)がありますので、そこを抜粋いたします。

浄桂院の御本尊様 阿弥陀如来様

■重文級の阿弥陀如来立像

 浄桂院の本尊阿弥陀如来は、度重なる火災から難を遁れた創建以来の唯一の寺宝である。災禍に際して、本尊守護に尽くされた、歴代住職の並々ならぬ努力の結晶というべきである。
 本尊は檜材、寄木造り、漆泊仕上げ、丈一m余の見事な金色立像で、来迎印を結び、舟形飛雲光の光背を負っている。
 かつて西村公朝先生(前㈶美術院国宝修理所所長、元東京芸大教授)が本像を調査されたことがあるとのことで、改めて浄桂院所蔵の部分写真十数枚を送り鑑定を依頼した。ご返書は左の如きものであった。
 「本像は鎌倉中期から末期に向うころのもので、どこか地方の県か市にあれば、重要文化財になるかもしれません。しかし現状の肉身部の塗りつぶしでは指定は無理でしょう。(或は市によってはなるかもしれません。)両手両足は江戸頃か、或は近時の補作です。台座、光背共に近時かもしれません。鎌倉時代の特徴は衣文のひだの形、そのひだの内部に骨格がしっかり見えます。腹部、腰、大腿部の形など感じられるのです。この点を自分の目で確かめて下さい。作者は、運慶、快慶などにみられる慶派の系統でしょう。(後略)」
西村先生が残念がるように、幾度かの罹災と修理の難関をくぐりぬけ、生きつづけた苦難の仏像の歴史がここにみられるのである。

『郷土目黒』第三十三集 111頁

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